予備校生活と、字をあまり書かないかあちゃんからの手紙をもらった時の有り難さ。

  故郷金沢の親元を離れ、大学浪人生活を私は始めた。

 50年近く前の当時は、私立大学と、国立大学の入学金、授業料の差額は3倍ぐらいあった。

 そこで、浅はかな考えが私の心に浮かぶ。

 せっかく、私立大学合格したが、万が一翌年、国立大学に合格したら、親の負担はその方が格段に減るはず。

 また、一年もあれば、国内の旧帝大は、どこでもじゃまないやろ!と、もう、駿台予備校に入校が決まった時点でたかを括った。

 毎日決まった時間に、とおちゃんの親友、太田さんが杉並永福町で経営している建設会社の社員寮の一部屋から、予備校まで行き来する生活が始まった。

 現実は、思った通りにはいかず、学期ごとに成績順にクラス替えするが、所属の理系のAクラスには、なかなか上がれない。

 それどころか、高校の時と同様、授業内容が理解できないことがあった。周りの学生は、賢そうに見え完璧に理解している様子だ。

 わからないことをそのまま放置して置けない性格の私は、その頃の名物学校長、鈴木長十先生

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%95%B7%E5%8D%81の英語の授業が終わるや否や、先生を追っかけ、エレベーターに乗り込もうとする時に、「ちょっとわからないところがあるんですけど、、」と息を弾ませながら言うと、一瞬戸惑いながら、「まあ、どうぞ!」と、エレベーターに、招き入れ中で丁寧に説明していただいた。

 一番勉強で学力が伸びたと思ったのが漢文だ。 

 高校3年間で漢和辞典を開いた回数の、5倍以上はこの時利用した。ぼろぼろとまではいかないが、手垢で黒ずんでしまうほどだった。

 毎日が単調に過ぎていく中で、たまに、田舎二俣の実家から米を送ってくることがあった。

 米袋を取り出すと、下にかあちゃんからの手紙があった。

 きちんとした便箋ではなく、何かのチラシの裏に、さだまさし風の何気ない言葉が鉛筆で書かれてあった。

 ちゃんとご飯を食べること、体を大事にすることなどが、書いてあり最後にみんな元気だから心配しないようにともある。

 どちらかと言うと、ばあちゃんっ子だった私だが、この手紙を受け取るたびに、かあちゃんを思い出しいっときホームシックにかかる。

 一年後まぐれで、希望した国立大学に入学してからも、かあちゃんからの、短い手紙は続いた。

 今思い出すと小学校しか出ていないが、そんなことに気後れせず、堂々と生きている姿を知らずのうちに私に示していたのだと深くありがたく思う。

 追記:太田さんのプレハブ寮の一室で生活した5年間の間の忘れられない出来事。薄い壁の隣に住む社員の1人の方がある日、私がラジオを聴いていた音が気になったのか大声で「ちょっと顔を出せ」と怒鳴ってくる。おずおず顔を出すと、普段の私の生活態度が傍若無人で迷惑していることをひとしきり言われ、最後に「この刀は本物だ。寸止めするからじっとしていろ❗️」と言うや振り下ろし頭の真上で止めた。

 少しお酒臭かったので、本当に肝を冷やした。頭が割られなくて命拾いした鮮烈な記憶だ。