大切な人が亡くなられたときに
安倍元総理大臣が亡くなられ、世界中に衝撃がはしりました。あらためて存在の大きさを再認識いたします。心よりご冥福をお祈りいたします。
大切な人が亡くなった時、人は死を悼み、深く哀悼の意を表します。
弔意を表す時様々なマナーがあります。
遺族の方の気持ちを思い、決して失礼がないように正しいマナーを知っておくことが肝心です
①リボン(ビラ)2.5cm×12cm
②敬弔リボン 7.5cm×90cm サテン地
③喪章(腕章)マジックテープ付き10cm×40cm
④金球に付ける黒い袋12cm×18cm
喪章とはお悔やみの席で腕に巻く黒い腕章や胸につけるリボンのことです。
古くは遺族側は白装束、弔問客は羽織袴等の正装というように服装で立場がわかりました。
しかし、明治維新以降は遺族・弔問客ともに黒色の喪服を着ることが一般的になり、区別の為に喪章をつけるようになりました。
現代では遺族側の人がつけます。
①ビラ
リボン型の喪章はビラともいいます。安全ピンのついたリボンです
③腕章
仏教の教えに従い、本尊から見て右側が上位という考えにもとづき、つける人の体の左側に喪章をつけます。
左腕に着用することにより、故人を悼む最大の弔意を表します。
喪主だけの場合や、親族皆の場合、葬式のお手伝いをする人や葬儀社の関係の方の場合があります。
いつまでつけるか?
通夜から告別式までは必要です。
火葬前後からは身内だけなので立場を区別する必要がないからです。
弔問客に失礼のないようにするには、喪服を着用したうえで喪章をつけることがのぞましいです。
略式喪服でも男性ならブラックスーツに白いシャツ、黒いネクタイを締めて喪章を、
女性においては、黒のワンピースやアンサンブルに喪章をつけるのが基本のマナーです。
②敬弔リボン
敬弔リボンとは?
会旗に付ける弔意をあらわす黒いリボンです。
④布袋
金球はどうするのか?
黒い布袋で覆います。
これらは心からの哀悼の意を表するために欠かせないものです。
鯨幕
葬儀の際、式場に張る黒白の縦じまの幕のことです。式場のなかだけではなく、建物の周囲にも張ります。
鯨の黒い皮と白い部分とが、黒白になることからこの名前がついたといわれています。わたしは思わず、鯨もちをおもいうかべました。加賀には古来より暑い夏を乗り切るために土用の丑の日に鯨汁を食する風習があったらしく(今ではきいたことがないですが)、その鯨の皮にみたてて道明寺粉と焼き昆布の粉を用いて仕上げた黒白のお菓子です。ひんやり冷やすとおいしいです。残念ながら金沢には1件くらいしか鯨もちを売っているところがないです。しかも毎日販売ではなく、棹菓子として販売です。
鯨というと黒白をイメージするのは昔の人の共通点ですね。
古来日本では喪に服すには白を使う習わしでしたが、江戸のころから黒を使うようになり、鯨幕を葬儀につかうのは昭和以降という説もあります。
なんと!本来は弔事,慶事に関係なく使用されるものです。皇室では慶事にも黒白の幕を使用します。
ここで、なんだか謎が解けたような気がしました。昔、パールバックの『大地』を読んだとき、(全巻ではないですよ!)中国では喪に服す時は白だと知り、日本と違うんだなあとおもいました。大河ドラマで信長が切腹するシーンは白装束ですね。白は死に関係あるという、日本人の心性が古来より綿々と受け継がれているとおもいました。大河ドラマで床につく時の着物は白ですね。現代風にいえばパジャマですがなぜ白なのかとずっと考えていました。眠るということはきっと死に結びつくのではないでしょうか?永眠といいますよね。
それでは黒と弔意はどこで結びつくのでしょうか?ずっと前にタイの国王が亡くなられたとき、黒い染料が売れて、国民がこぞって服を黒に染めて喪に服したと聞いたことがあります。そのせいか染料の黒がなかなか入りませんでした。嘘のような本当のような話がありました。今も黒が切れています。どこかの要人が亡くなられたのかなあとずっと入荷待ちです。
半旗
ところで、皆さんは半旗の英語をご存じでしょうか?half-flagでしょうか?残念!正解はhalf-mastです。もともとは帆船で弔意を表すため黒い帆を掲げるのが慣習だったそうで、黒い帆→黒い布をマストに掲揚しました。しかし、黒布は遠くからではよく見えない為、代わりに国旗で弔意を表すことが普及しました。
以後、海上以外でも弔意を表す国際儀礼となりました。
村松商事株式会社 女将の範子です。
村松商事株式会社
https://hatanomuramatsu.com/
よろしくお願いします。
昔は金沢一ハイカラだった尾張町生まれの尾張町そだちです。
三人姉妹の長女としてうまれ、家も会社も継ぐ宿命に。
自由がいいなあと他を羨ましがっても仕方ないので思い切り空想の世界をワープすること数十年。
家を継がないで高飛びして外国に行きたいと思い、フランス語を必死で学ぶも芽がでず、今日に至る。
少しだけ人助けができたかなとは思います。
国際交流のお手伝いをして皆が平和になりますようにと一貫して昔から思っていました。
きっかけは1964年の東京オリンピックです。
6歳くらいのころオリンピック行きの切符が商店街のくじであたり、母といくことになりました。
初めて行く東京で初めていろんな国の人を見て驚きました。
言葉が通じないけれど世界中の人とお友達になりたい気持ちでいっぱいでした。
言いたいことがいっぱいあるのに言葉がわからないもどかしさをとても強くかんじました。
そして、陸上の黒人の選手が最後に走っているのを観客皆が拍手で送ったのをはっきり覚えていました。
言葉や肌の色などの違いを超えて皆、心は同じだと感動しました。
このことを高校の英語のスピーチコンテストで発表しました。