お母さん(養母)村松貞との向き合い方!

  料理のことならどんな小さなことでも知っているお母さん。
 ずっと、かみさん(範子)のお母さんとして向き合っていた。
 小学生の頃俳句大会で、
「子ら石を投げてまだ高い渡り鳥」という句で、特選になった。
 とか、子供議会に、参加した後、引率の先生から、「映画でも見んまいかい!」と言われ子供心に(授業の一環なのに寄り道して大丈夫❓)と訝ったが見たこと。
 魚屋さんが、家の前を通った後、フグが、一匹道に落ちていて、家族に内緒で捌いて食べたこと。
 冬場、神社の坂道でスキーをしていて、大きな御神木に滑っていたのだが避けきれずぶつかった事。などなど、先代(貞お母さんの添い相。養父)が亡くなってから、かみさんと3人で夕飯を共にするようになってポツリポツリと、育って来た歴史を語ることに、じっくり耳を傾けている。
 その中でもあまり表情を外に出さない性格なのだが、大学に進学したかったのだが、大おじいちゃんの「女に学問はいらん。」の一言で、断念せざるを得なかった事を話す時に限ってその時の悔しい思いが顔、口ぶりに出てくる。
 色々聞くと、かなり成績は優秀で、私の母校金沢大学附属高校(今はなんが長ったらしい別の名前だが)の6回生(私は24回生)で、その当時でも殆どが大学に進学していた。さぞ悔しい思いだったろうと推測すると同時にいつも、私の父、坂井昭保のことを例に出し慰める。
 父は、旧制第二中学校に入学したが授業料を払えなくなり中退。師範学校(授業料免除)に転校する。市電で、それまで一緒に学んでいたニ中の同級生が乗り込むとすごすご降りてしまう。どんだけ悔しかったか?
 この話と、大学の代わりに栄養専門学校に通ったお陰で病弱な先代が歴代14代のうち最高齢86歳まで生きておれた事などを話す。
 人生の先輩であるお母さんに諭す(⁉️)のもおかしな話だが。
 ある時から、自分の実の母ちゃんと考えて接するようになる。母ちゃんはここ数年会いに施設に行っても、子供である私達さえわからず、コロナが流行してからは会いに行くこともままならない。
 せめて村松のお母さんを、実の母と考えれば色々ゆったりした気持ちで過ごすことができると考える。
万葉集の大家また、令和の名付け親ともいわれている中西進先生の万葉の会に参加できるのも貞お母さんがご縁を作ってくれたお陰。