石臼から世界を見る
花火大会がやっと開催されて夏らしいイベントに沸いたところもあると思います。
しかし、コロナ禍では、本当はまだじっと我慢の時ですね。
夏の暑さも加わって、うだるような暑さというほかはない毎日です。
食欲のない時は冷たい麵類といきましょうか?
麺をつくるには穀物を粉にする必要がありますね。
私たちには当たり前のようにある粉ですが、昔の人はどうやって粉をつくったのでしょうか?
硬い皮でおおわれた小麦や蕎麦、のど越しのいい麺にするには大変な労力が必要のことと思われます。
古代麦といわれる品種で作ったパンについてはパン屋さん曰く,皮がかたくて虫もつかないとのこと。
それで、農薬不要とのことです。
原種に近い麦は皮が硬いのならなおさらのこと、今以上に粉にするのが大変だったことでしょう。
命の糧であるパンや麺や餅を食べるとき、粉にする道具が貴重なことがよくわかります。
ごはんを食べる文化にとってはそれほどではないかもしれません。
こう考えると、石臼は画期的な発明だと思います。
人類は新石器時代や後期旧石器時代にはやくも石臼を使って穀物、木の実、根菜などを粉にして食べ物をとっていました。
後には、顔料や精錬前の鉱石まで粉にしました。
日本へは推古天皇(592-628)の7世紀ごろ高麗からはいってきて、鎌倉から室町時代に抹茶の導入とともに上流階級の間でひろまりました。
後に戦国時代(15世紀末-16世紀末)になると火薬の調合に石臼がつかわれました。
古戦場跡や城跡からたくさんの石臼が出てきたことがこのことを語っています
。硫黄や硝石、木炭などを粉にして調合して火薬を作ったものと思われます。
こんなわけで茶の湯と火薬が同じころにひろまりました。
火薬については、加賀藩の塩硝が良く知られています。五箇山の塩硝は量・質とも日本一でした。
煙硝とは、硝酸カリウムのことです。これは肥料としても使われます。
加賀藩は文化・芸術に力をいれていましたが、軍事にも力を入れ、五箇山を押さえていました。
徳川幕府には秘密裡でしっかりと火薬を備蓄していました。煙硝の一文字を「塩」にすることで煙にまいていました。
なんと11万7千平方メートルの加賀藩土清水製薬所が昔あったのです。驚きです。
余談ですが、安倍元首相を襲った犯人のところには肥料の硝酸カリウムがみつかりました。
一部硝酸アンモニウムと誤報道されたそうです。夏の夜空を彩る花火には硝酸カリウムが入っています。
石臼がなかったら花火も見られないですね。
夏の夜の物語です。
いろいろな変遷がありましたが、石臼は江戸時代中期には農民のあいだでひろまり、主に食品を粉にする目的でつかわれました。
のど越しのいい冷たい麺をいただきながらいろいろ思いました。

村松商事株式会社 女将の範子です。
村松商事株式会社
https://hatanomuramatsu.com/
よろしくお願いします。
昔は金沢一ハイカラだった尾張町生まれの尾張町そだちです。
三人姉妹の長女としてうまれ、家も会社も継ぐ宿命に。
自由がいいなあと他を羨ましがっても仕方ないので思い切り空想の世界をワープすること数十年。
家を継がないで高飛びして外国に行きたいと思い、フランス語を必死で学ぶも芽がでず、今日に至る。
少しだけ人助けができたかなとは思います。
国際交流のお手伝いをして皆が平和になりますようにと一貫して昔から思っていました。
きっかけは1964年の東京オリンピックです。
6歳くらいのころオリンピック行きの切符が商店街のくじであたり、母といくことになりました。
初めて行く東京で初めていろんな国の人を見て驚きました。
言葉が通じないけれど世界中の人とお友達になりたい気持ちでいっぱいでした。
言いたいことがいっぱいあるのに言葉がわからないもどかしさをとても強くかんじました。
そして、陸上の黒人の選手が最後に走っているのを観客皆が拍手で送ったのをはっきり覚えていました。
言葉や肌の色などの違いを超えて皆、心は同じだと感動しました。
このことを高校の英語のスピーチコンテストで発表しました。
https://hatanomuramatsu.com/archives/1274
それ以来、ずっとたって自宅で国際理解の会を開きました。
月に1回料理を持ち寄って外国に行ったことのある人にお話しを聞いたりする会です。
外国人をお招きしたりもしました。
国際結婚をした女性も小さいお子さんをつれて来て、幼稚園のようなときもありました。
モロッコ人の友達が困ったときにはアイスランド人やインド人、フランス人、フィリピン人の友達を招集してみんなで困りごとの糸口をみつけだしました。
おばあさんになったら世界中の友達のところに旅行できるねと皆で楽しいことも考えました。
モロッコ人の友人は深刻なときもありましたが、いまでは再婚して幸せに暮らしているので、外国語を使って人助けができてよかったと思います。
多様性の中で育った子供たちは皆世界に羽ばたいてほしいものです。
スポーツの国際大会とかのボランティアにも機会あれば参加し、大阪の世界陸上には次男が関西の大学に受かったので、はっぱかける意味でボランティアに応募したら、彼は説明会の段階でやめてしまって私だけが参加しました。
アフリカの選手たちと交流できて貴重な経験でした。
世界少年野球大会では、今でこそハラルフードをイスラムの方に提供しますが、当時は特別にハラルフードをださなかったのでイスラムの人には食べるものがあまりありませんでした。
反乱がおこりました。矛先は私にきました。
たしか、チュニジアは昔カルタゴと言っていたと思い起しました。
そこで、名案!カルタゴの子孫であるあなたたちは勇敢にもローマに勝ったんですね!といったら急に誇らしげな態度にかわりました。
カルタゴがポエニ戦争でローマに勝ったことをおもいだしました。
そして、騒ぎが少しおさまり、私はチュニジアのメンバーからバイニージャという名前を賜り、まるでヒロインのように扱わられました。
軍人上がりの引率者は チュニジアでは私書箱を持っているんだと誇らしげでした。
スポーツの担当は富国強兵の流れで軍に関係あるのです。そして、子供たちは、この寮にいるからチュニジアにきたらぜひ来てくださいといいました。
古代ローマに関心があるため救われた例です。
古代から現代、やはりつながっているんですね。
今は古代ローマのことをとことん知り尽くそうと思っています。
ポンペイ展、企画のちがうもの3回みました。幸い偉い先生方が多くの本を書いていらっしゃるので資料に困ることはありません。
いろんな視点からローマを見ると面白いです。