チュニジアの子供たちからバイニージャと呼ばれる
2002年の手紙がみつかりました。
チュニジアの子供たちからおくられました。2002年1月26日に書いた手紙でした。
私の2通目の手紙を待っていますと書いてあり、まだ書いてなかったことにきがつきました。
金沢での世界少年野球大会でのことが懐かしく思い出されます。
あの頃はハラルフードを別にイスラムの人に提供する風潮がまだなかったです。
たべられないものを除けるくらいでした。
普通のお弁当屋さんのお弁当がでても食べたことない日本食だしほとんど彼らは口をつけてなかったです。
初めて日本にきて、いきなり得たいの知れない日本食がでて食べなさいといわれても拒絶反応が出るばかりです。
ボランティアのフランス語の通訳の私に矛先がきて、怒りと空腹によるいらだちが一緒になり一挙にクレームが爆発しました。
担当者はあわててリンゴとツナ缶とパンをかってきたのでようやく餓えからのがれられたようでした。イスラム圏でアフリカからの初めてのグループだったと記憶しています。
私はまずチュニジアの引率者と仲良しになりたいと思い、いろいろ作戦をねりました。
彼は軍人上がりのカチカチ頭の人でどこに行ってもチュニジアの文化を引きずっていてチュニジア一番!の人でした。
スポーツは富国強兵の一環としてあるので軍人とスポーツは近い関係の様です。
そうだ!チュニジアは昔カルタゴといって、古代ローマにポエニ戦争で勝ったことがあるはずだ!これで行こう!と思い、あなたたちの先祖は昔、ローマに勝った素晴らしい強い人たちですね!と言ったらすごく喜んでくれました。
彼の影響で子供たちも私に対する態度がガラッとかわりました。
そして輪になってわたしをかこみ、バイニージャ!バイニージャ!とよびました。何が何でかわかりませんが、彼らとお友達になれたのです。
歴史はずっと続いているんだと実感しました。ジハード(聖戦)いう名の子がいましたが、今アイエスとかで戦っていないよう願うばかりです。世界がいろんな人にやさしく多様性を受け付けるようになったらいいなあとおもいました。
村松商事株式会社 女将の範子です。
村松商事株式会社
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よろしくお願いします。
昔は金沢一ハイカラだった尾張町生まれの尾張町そだちです。
三人姉妹の長女としてうまれ、家も会社も継ぐ宿命に。
自由がいいなあと他を羨ましがっても仕方ないので思い切り空想の世界をワープすること数十年。
家を継がないで高飛びして外国に行きたいと思い、フランス語を必死で学ぶも芽がでず、今日に至る。
少しだけ人助けができたかなとは思います。
国際交流のお手伝いをして皆が平和になりますようにと一貫して昔から思っていました。
きっかけは1964年の東京オリンピックです。
6歳くらいのころオリンピック行きの切符が商店街のくじであたり、母といくことになりました。
初めて行く東京で初めていろんな国の人を見て驚きました。
言葉が通じないけれど世界中の人とお友達になりたい気持ちでいっぱいでした。
言いたいことがいっぱいあるのに言葉がわからないもどかしさをとても強くかんじました。
そして、陸上の黒人の選手が最後に走っているのを観客皆が拍手で送ったのをはっきり覚えていました。
言葉や肌の色などの違いを超えて皆、心は同じだと感動しました。
このことを高校の英語のスピーチコンテストで発表しました。