私たち兄弟姉妹4人の繋がりがどこよりも強いのは親の育て方にあると思う

(あんちゃん後列左端、ねえちゃん後列左から3番目、妹 その右横)

  私は金沢市二俣町という、医王山海抜939mの山の麓で生まれ育った。 

 あんちゃん、ねえちゃん、私、妹の順に生まれた。

 とおちゃんは、小学校の先生、かあちゃんは、家で機械による稲藁で筵(むしろ)を作っていた。

 私たち4人は、かあちゃんの手伝いの一端、あんちゃんは、稲藁運び、ねえちゃんは、できた長い筵を約3m毎に鎌で切る、私と妹は、切れ端が、解けてこないように、3箇所縛る。

 それぞれ流れ作業のように折りたたんだ筵を作っていく。(この筵は、その頃高度成長期の日本から輸出する機械にキズがつかないように包んで運ぶのに使われた)

    大きくなるにつれ私はねえちゃんがしていた、鎌で切る仕事に昇格したのです。

 作業する隣の部屋にあるテレビが気になり、顔をテレビの方に向けながら筵を切っていたら、左手の人差し指を深く切ってしまった。

 4人は、家の仕事にはいつも、田んぼの仕事、山の杉の林の、下草刈り、雪で倒れた杉の苗木の木起こしなどなど、手伝いに参加していた。

 こんな4人が大きくなり、順に社会に出て稼ぐようになった。

 4人も大学に出すことは、両親にどれほどの負担になったか?

その半分2人しか育てていない私には苦労の大きさが、今になって見に染みる。

 そんな両親の苦労を少しでも和らげるためか、私たち4人のすぐ上から、順番にすぐ下の兄弟姉妹に、いくらかの、お金を大学卒業まで送っていた。

 あんちゃんは、ねえちゃんに、ねえちゃんは、私に、私は妹に少しだが学資の足しにと、お金を送った。

 この習慣は、親から言われたのではないが、結果として今でもすぐ上のねえちゃんには、私は頭が上がらない。

 こんなことから、外からは考えにくいほど4人の結びつきは強い。

 こんな気持ちにさせてくれたのも、とおちゃん、かあちゃんが苦労していたのを目の当たりにして自然発生的にできた若い時のシステムから由来する。