努力の石碑。二俣町の実家の前にあり、心の支え!

二俣の実家の前に建つ 

 海軍のおじさんを、讃える石碑

 おじさんと言っても正確には、とおちゃん(坂井昭保)の、おじさんである。

 でも昔からなんにつけて、話題に上り、そのように言われているのでそう称ぶ。
 物心ついた頃には、建っていて、朝な夕なに、前を通るたび、なんと書いてあるんやろ?と、思ってたまに、声に出して読んでいた。
 
 下記 全文
 題字  努力
   空母艦長 菊地朝三

故海軍少佐 坂井伊三郎は明治
三十三年六月十三日 金沢市二俣
町に生まる 大正九年十二月一日
舞鶴海兵団へ入団 精励努力によ
り恩賜の時計を拝授 兵学校 砲
術学校の教官等を歴任し 坂井式砲
術とまで名声をうたわれた
 日本帝国最後の運命をかけた
中部太平洋海戦に砲術長の任を
受け 世界一の空母大鳳に乗艦
全力を尽くすも及ばず 波間に沈ま
んとする甲板上にて部下を避難さ
せ かの軍神広瀬そのままの姿
で誠意を胸に不滅の光を放ち
つつ帰らぬ人となる 時は昭和
十九年六月十九日未明なり

    空母大鳳艦長 菊地朝三記
           吉田北辰書

いつも、とおちゃんから、海軍のおじさんは、海もない山で育ったのに海軍に入り、頑張っとったがいぞ!

 海軍は、陸軍と違い世界に目を向けていたから、敵性語である英語を勉強しなならなんだ!
 所帯を持った相手 キクは、共立女学校出で、英語を、習っていた。
 カチカチの亭主関白(今では、絶滅危惧種 ことば?)だったが、背に腹は代えられず、この時だけは、キクさんにお願いして習った。
 海兵団へ入団した当時、遠泳という訓練があり、沖合1キロくらいのところまで行き、泳いで何往復もすると言うのがあった。
 皆 途中疲れて、根を上げ小型の船に拾い上げられる。
 ただ1人、伊三郎だけが黙々と泳いでいる。辺りが暗くなり、痺れを切らして、「もう良いから上がれ!」と、言われても「上官の命令がないと、やめられません」取り付く島もない!
 弱って 隊長が出てきて、「頼むこっちゃ、上がってくれ」ようやく泳ぎをやめた。逸話の一つ。

 もう、終戦前に亡くなったおじさんだが、こんなふうに聞かされて育ったので、大きくなって尊敬する人の、本田宗一郎と、伊三郎さんをいつも2人をあげていた。

 

 また、巡り合わせとは不思議。

未亡人となり、5人の子供を育て上げたキクさんに、私達兄弟姉妹4人はまるで母ちゃんのように東京品川戸越に住んでいたので、お世話になる。 

 101歳まで生き、天寿を、全うされたキクさんに、来世会えるのが楽しみ。
 いつも紫煙を、くゆらせ、「淳か、こっちにきて座れま❗️」と言って、政治、経済、世界情勢を、ひとしきり講演?してくださったのが懐かしい。

 あんやと、とうきょうのおばさん(キクさんのよびな)

宣伝 長野県諏訪市 からの、社旗

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