ねえちゃん(志津子)と妹まっこ(真紀子)から、私がいろいろ受けた影響。ねえちゃん編

(写真は2020年秋、とおちゃんとねえちゃん。軽井沢雲場池)

 家族からは日々いろんなことで影響を受けている。

 ねえちゃん()については、間違いなく私が高校(附属高校)に、入学できたのもねえちゃんがいたからだ。

 身内の自慢話になるが、ねえちゃんは、運動するのはからっきしダメ。

 しかし、勉強のこととなると、すごく深く自分から積極的にしていた。そのお陰で、その当時あった県内中学統一模試では、いつも上位にランクされていた。

 高校受験も初めて私たちの医王山中学校から、附属高校に入学出来た。

 (ねえちゃんの、運動が苦手なことはあんちゃんがいつも嘆いていた。しかし、私にとって衝撃的な事実を最近になって知った。それは、ほとんどO脚に近い格好はねえちゃんが、小さい時、とおちゃんが引く荷車に轢かれたからと。そんな大変なことがあったので、足がうまく運べなかったのだ。そんな苦しさがあったのをおくびにも出さないねえちゃんに、今更ながら感心する)

  その頃の附属高校の選抜は学業主体の基準で判断したのだろが、他に兄弟姉妹が、高校にいて頑張っているかどうかも重要な指標だったと信じる。そのねえちゃんの、高校での頑張りで、私の中学校の成績だけでは到底入れなかった附属高校に合格💮入学できた。(それは私が入学してから成績がずば抜けてゲベタだったことからもわかる)

   高校では私が1年、ねえちゃん3年。時々3年生の間で、姉御肌で有名なねえちゃんの弟というだけで、私のところに来て「志津子の弟か?」という3年生もいた。

 このねえちゃんとの高校卒業までの一年は、文字通り庇護のもとで生活した。下宿も学校から歩いて3分。勉強仕方も、先生の癖などもねえちゃんから、教えてもらった。

 社会人になってからも、あれこれ気にかけてくれ、必ず私の誕生日には電話が来る。

 高校時代、私たち生徒の間では化学の先生で伝説となっている中原先生に影響され、化学の道を歩んだねえちゃん。 

 筑波大学盲学校で目の不自由な生徒に実験などの授業を工夫して進めていた。本当に、ねえちゃんの歩んできた時間は、辛いことが小さい頃あったのもものともせず輝いている。

 あらためて、私の人生を支えてくれているねえちゃんに感謝する。

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