地域交流の場、銭湯にお年寄りがいない?私自身の老いについ

 

昨日、補助券を使い近所の銭湯に出かけた。

 夜、10時近くだったのもあり、お客さまはまばら。

 京都でも同じように感じたが、昔から銭湯は地域の老若男女が、集まる場だったと思うが今は、面影なく、入る人も少ない。

 かみさんとお邪魔した銭湯も、湯船を独り占め状態。

 今日10月1日から、いろいろなもの、特にビールなどと、食料品の値上がりのため、買い出しにつれ出てこなかったのかもしれない。

 自分自身が、老人の年齢になりつくづく思う。田舎、二俣町で、いつも近くからお年寄りが家の囲炉裏を囲みながら、いろいろな話をしている姿が、当たり前だった。

 とおちゃんも交え、いろいろな話をしているのだが内容が、全く理解できない。ただ、お年寄りのみんなと話していることを見るのが楽しみだった。何でも知っているのでないかと感心していた。

 私も、高齢者に分類される年齢になって、色々自分を見つめることが増えた。

 まず階段の上り下りをする際に、(来年も今のように何な苦労もなく出来るか?)と思って、体を労わるようになった。

 また、昔自分が見たような物知りのお年寄りのに近づいているかと自問するが、恥ずかしいくらいあくせくしていてわたしの周りにいた人のようにでんと構えていない。

 季節の移り変わり、今の季節などは、虫の声が、若い頃は聞こえるだけだったが、この頃は、虫の息づかい、生きていることが、愛おしくなるほどに感じられ歳をとるのも悪くないと納得している。

 残念なのはわたしの育った環境もそうだったのだが、昔は3世代で住む家庭は当たり前だったのが、今は、核家族。一緒に生活すれば、じいばあの、知恵、だんだん動きが鈍くなることを知る機会がなくなったのは、残念なことだと思う。

 たまたま、隣に、90歳に近くなるおかあさんが生活しているので、わたし、かみさんの未来の姿が観察出来るので心の準備ができる。私たち2人はおかあさんの世話をしているようで、自分たちを励ましているような錯覚に陥る。