救急車にのってわくわくしました。
最後の最後の定期健診かなあと思い、大きなおなかをかかえ、いつもの産婦人科にいきました。そういえば、あす生まれるかもといわれていました。でも、入院の準備をしていたかはよく覚えていないのです。
30年以上も昔の話です。診察の時、なんだか急に息苦しくなりました。
お医者様や看護師の方々が急にざわざわしました。どこも痛くはなかったと記憶しています。どうしていいかわからないうちにじわじわと時間がすぎ、まもなく救急車がきて、まず酸素のマスクがあてられました。
なにがなんだかわからないうちに救急車にのせられ、赤十字病院にはこばれました。なぜか能天気で、わーい、救急車にのれる!めったにない面白いことがはじまる!と、これからのことをしっかり見てみようとの思い
で一杯でした。
ほかの人がきいたら、馬鹿じゃないかと思われるでしょうね。この思いを密かに胸にしまって現実をみていました。相変わらず痛くはないけれどもなんだか息苦しくなってきました。本当になにがなんだかわからない
ままでした。
知らないまに麻酔がかけられていたのですね。これ以上思い出せないのです。
だいぶ時間がたって目がさめました。いつのタイミングだったか、この場合、子供をすくうか、母親を救うか、どちらも救うか、どちらもだめかのどれかになると聞かされました。
私はいきている!子供は!子供はどうなったんだろう?
あとでよく聞くと私の知らない間に、まわりで、ショックが大きいので母親にみせるべきかどうかと議論していたそうです。
私に選択肢が与えられたとき、私は親だから見る権利があるのでみせてもらえて当然とおもいました。何しろ10か月ほどもおなかの中にいたこどもなんです。なぜみてはいけないのですか?逆に聞きたいです。そう思っ
ていました。
時間がたち、少しおちついてから子供を看護師さんから抱かせてもらいました。
思ったより重く、ずっしりしていました。でも赤ちゃんの柔らかさはありませんでした。硬く、だからこそ重くずっしりとかんじました。唇はむらさき色でした。
私の身代わり、私以上につらかったんだね。この子をだいたのは最初で最後でした。でも、決して後悔はしていません。あとで、あの時抱いていれば・・・と後悔してもその時間は戻ってこないです。
私は決して取り乱さず静かに現実をうけいれました。
原因不明の胎盤早期剥離。これが私についた病名です。防ぎようがなく、普通の人がめったにならない病気というだけです。私は生きている!子供は残念ながらなくなった。おなかのなかでなくなったので、出産届と死
亡届がおなじなのかなあとぼんやり考えていました。
真秀子(まほこ)と名づけたけど戸籍にはないはず。古事記からの名前です。
大和は国のまほ(真秀)ろば たた(畳)なづく あをかき(青垣) 山こも(籠)れる やまと(大和)しうるは(美)し
倭建命(やまとたけるのみこと)が故郷を思って歌った歌:大和は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中こもっている大和は、美しい・・・ 古事記より
産まれる前の、美しい世界にまたもどっていったのでしょう。
だいぶしてから、やっと現実が理解でき、なんだかわからないけれど、涙がとめどなくでました。本当に涙が止められないのはこの時が最初で最後でした。
いつか真秀子に会いたい。今はしっかり生きよう!そうして、いつもわくわくしています。
私は今いきている。生きていることに感謝の毎日です。生かされているんですね!

村松商事株式会社 女将の範子です。
村松商事株式会社
https://hatanomuramatsu.com/
よろしくお願いします。
昔は金沢一ハイカラだった尾張町生まれの尾張町そだちです。
三人姉妹の長女としてうまれ、家も会社も継ぐ宿命に。
自由がいいなあと他を羨ましがっても仕方ないので思い切り空想の世界をワープすること数十年。
家を継がないで高飛びして外国に行きたいと思い、フランス語を必死で学ぶも芽がでず、今日に至る。
少しだけ人助けができたかなとは思います。
国際交流のお手伝いをして皆が平和になりますようにと一貫して昔から思っていました。
きっかけは1964年の東京オリンピックです。
6歳くらいのころオリンピック行きの切符が商店街のくじであたり、母といくことになりました。
初めて行く東京で初めていろんな国の人を見て驚きました。
言葉が通じないけれど世界中の人とお友達になりたい気持ちでいっぱいでした。
言いたいことがいっぱいあるのに言葉がわからないもどかしさをとても強くかんじました。
そして、陸上の黒人の選手が最後に走っているのを観客皆が拍手で送ったのをはっきり覚えていました。
言葉や肌の色などの違いを超えて皆、心は同じだと感動しました。
このことを高校の英語のスピーチコンテストで発表しました。
https://hatanomuramatsu.com/archives/1274
それ以来、ずっとたって自宅で国際理解の会を開きました。
月に1回料理を持ち寄って外国に行ったことのある人にお話しを聞いたりする会です。
外国人をお招きしたりもしました。
国際結婚をした女性も小さいお子さんをつれて来て、幼稚園のようなときもありました。
モロッコ人の友達が困ったときにはアイスランド人やインド人、フランス人、フィリピン人の友達を招集してみんなで困りごとの糸口をみつけだしました。
おばあさんになったら世界中の友達のところに旅行できるねと皆で楽しいことも考えました。
モロッコ人の友人は深刻なときもありましたが、いまでは再婚して幸せに暮らしているので、外国語を使って人助けができてよかったと思います。
多様性の中で育った子供たちは皆世界に羽ばたいてほしいものです。
スポーツの国際大会とかのボランティアにも機会あれば参加し、大阪の世界陸上には次男が関西の大学に受かったので、はっぱかける意味でボランティアに応募したら、彼は説明会の段階でやめてしまって私だけが参加しました。
アフリカの選手たちと交流できて貴重な経験でした。
世界少年野球大会では、今でこそハラルフードをイスラムの方に提供しますが、当時は特別にハラルフードをださなかったのでイスラムの人には食べるものがあまりありませんでした。
反乱がおこりました。矛先は私にきました。
たしか、チュニジアは昔カルタゴと言っていたと思い起しました。
そこで、名案!カルタゴの子孫であるあなたたちは勇敢にもローマに勝ったんですね!といったら急に誇らしげな態度にかわりました。
カルタゴがポエニ戦争でローマに勝ったことをおもいだしました。
そして、騒ぎが少しおさまり、私はチュニジアのメンバーからバイニージャという名前を賜り、まるでヒロインのように扱わられました。
軍人上がりの引率者は チュニジアでは私書箱を持っているんだと誇らしげでした。
スポーツの担当は富国強兵の流れで軍に関係あるのです。そして、子供たちは、この寮にいるからチュニジアにきたらぜひ来てくださいといいました。
古代ローマに関心があるため救われた例です。
古代から現代、やはりつながっているんですね。
今は古代ローマのことをとことん知り尽くそうと思っています。
ポンペイ展、企画のちがうもの3回みました。幸い偉い先生方が多くの本を書いていらっしゃるので資料に困ることはありません。
いろんな視点からローマを見ると面白いです。